ビール・イン・純喫茶
喉が渇いて喫茶店に入ると、メニューにビールがあった場合は勤務中と食後を除きビールを頼むことが多い。いつもは家でテレビとかネットとか見ながら静かに飲むことが多いので居酒屋での喧噪のなかでのビールより喫茶店の方が落ち着いてその味を楽しむことができる。生ビールだと尚嬉しいが、喫茶店にそれを求めるのは酷で、せめて瓶であればありがたい。そして今日はハイネケンを頼んでみた。
インテリジェンスを、持ち歩こう。

いろいろ考えた結果、「速い」「(比較的)軽い」「安い」「壊れにくい」という自分自身のニーズの最大公約数をとって、この艶消しの表面に見えない文字で「考えろ」と書かれているX61を手に入れた。いままで会社でこのXシリーズの2倍くらいの大きさのRシリーズを使っていけど、Rシリーズだと外に持ち出すのはさすがに重すぎ。あと共有持ち出し用でVAIOもあるのだけど、それもたまにしか使わないROMドライブと大容量バッテリーのせいで2キロ以上の重さ。しかも液晶が今流行のテカテカなのも気に入らなかった。このX61をさっそく外出時や社内MTGなどで使っていて、なかなか取り回しが良くて満足。液晶もテカテカしてないし、XGAの解像度もプレゼンやチェックで使う分には必要十分かも。キータッチも普段デスクトップで使っているメカニカルとは違った意味での心地よさ。コシがある感じ。
「インテリジェンスを持ち歩く」コンセプトでおなじみのThinkPadシリーズはご存知の通り日本の神奈川県大和市にある日本IBM大和事業所で現在も開発されている。デザインのモチーフとなったのは漆塗りの弁当箱で、なんとなく大和魂をくすぐる。赤いポッチはさしずめ梅干しの種か。
たとえば、モノの価値。

こんなにもモノがあふれている世の中で、人はまだまだと改良してモノを作り続け、それを売っていこうとする。でもいつかそのジャンルのもので世の中がいっぱいになった時、モノは売れなくなるでしょう。たぶん。なんてあたりまえのことを考えてみる。でもたとえば、例外かもしれないけど時計に関して考えてみると、必ずしもそんなことも無かったりする。時計に求められる機能って、時間を表示すること。ただそれだけ。しかも世の中にたくさんたくさんあふれている。でも100円から1億までその値段はビー玉とダイヤくらいはなれている。100円の時計も1億の時計も機能を完璧に満たしていて、べつにどっちの時計を付けようが時間が早くなったり遅くなったりはもちろんないのに。スピーカーとか物理的作用するものは空間的情報の密度の差が体感できるけど、特に時計に関してはそれが無い。なんでだろう。その間にある差ってたぶん、そのモノの持つ価値だったりすると思う。当たり前といわれれば当たり前なんだけど。だから人はロレックスとかオメガとかかっこいい時計をほしがる。たぶん私も。物理的に体感できる価値の差が少ないものほどそのモノの価値に差が出る気がする。しかもこの差は多分に人の潜在的な心理の揺らぎ、自分でも気づかない不安とか欲求から生じていることが多い。例えば正当性を保ちたいとか。あと押しとか後ろ立てがほしいとか。モノが売れないと思ったときにこそ、このモノの価値と関連する潜在的な心理を顕微鏡で覗いてみる必要があるかも。
人生と、出会い。
「家族サービス」という言葉をつぶやいた。日常のサラリーマン会話の中で、そんな多くもないけど出るであろう言葉だと思う。そのときは頭のきれるおじさんたちを見てつぶやいた。「あの人たちも週末は家族サービスしてるんですかね。」それを聞いた上司が私の言葉を訂正してきた。「家族はサービスする対象ではありません。お互いに思いやり、育み合うものです。」と。その上司は6月に結婚する。所謂ジューンブライドというやつだ。できれば子供が欲しいと言っていた。あんなことがいえる彼女は、本当に、とても良いお母さんになると思うし、それを応援していきたい。
そして、できれば私もいつか子供と出会いたい思う。お金も、器量もあんまりないけど、たぶん一緒に泣いたり笑ったりしながら生きてくことはなんとかできると思う。そんなに自信無いけど、いつか出会いたい。その家族というやつに。
バナナ世紀。
バナナが食べたくなった。昨日も一昨日のよるもスーパーにバナナを求めに走ったがなぜか売切だった。どうやら最近近所でバナナの時代が到来らしい。黄色いダイヤ。手に入れられないと思うと、意地でも手に入れたくなるのが、ここで燃えるのが男。たぶん。だから今日の遅いランチの後、たまにいってる純喫茶店でバナナセーキを頼んだ。 ミキサーで粉々に押しつぶされたバナナがの断片が舌にぶつぶつとした食感与え、冷やされたミルクと一体になって胃の中に流れ込む至福の時。司馬遼太郎と立花隆との対話もバナナ風味に。空海もバナナ風味に。宇宙もバナナ風味に。ハイライトもバナナ風味に。
休日は、だいたい曇りだし。
春眠、昼飯の後。
毎日昼飯を食うと眠くなる。微妙な気温の上昇のせいで。そういえば学生の時はそうでもなく、昼飯前に眠くなってた気がする。デスクの前に座ると瞼に鉄アレイを付けられているようだ。目の前が鱗雲みたいになって、モニタの中の数字がボケながら踊りだす。
そう、関係ないけど、昔電車の目って丸かったんだな。こっちのほうがいいじゃん。四角の中にまるがあると、電車くんが「ぽへ」って言ってるみたいで、なんか落ち着く。
人生と、別れ。
人生は、つらい。誰にでもその程度は違うにせよ、否応無く別れがつきまとう。会社の仲間の初めての赤ちゃんが流れたと知って思った。なんて言えば良いかわからなかった。家に帰ってビールを飲んでそれを思い出し、自分自身のことではないけど、そのひとの気持ちを思うと辛くなった。本当になんて言えば良いのか。
でも、これは、これだけは、人生のなかで何回かある命との別れは、本当に仕様がないことで、泣いていいと思う。私も一緒に泣くと思う。もし一緒に泣いたら、その後にこれだけは言いたい。「何回でも成功するまでチャレンジだぜ。うまくいったその時は、また一緒に泣こう。嬉し泣きしようぜ。」別れちゃった命のためにも。
週末は、できれば海へ。
土曜は一日寝て、日曜は遅く起きて、月曜は目の回りにクマ、という週末三連コンボに見事にはまって、ピヨッたまま出社。花粉も落ち着いてきて外は歩きやすくなり、桜がもうみんな葉桜になって、代わりに葉の緑の補色のツツジが見られるようになってきた。来週はうまくコンボにはまらずに、久々に海にでも行ってマイナスイオンが吸いたい。
Twenty-Seven
餃子を焼いて、サンラータンを煮て、録りためたビデオを見ながら飯を食っていたら、いつの間にか時針は12時を回り、私は27歳になっていた。時はときに残酷なもので、あと3年もすれば、たぶん同じように飯を食いながら悔いながら30になっているだろう。もちろんまだその30という折り返し地点に行くのには猶予があるのだが、この3でも9でも割り切れる奇数は、確実に若さという衝動を減退させていく予感がする。







