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雨に朽ちる花。

Posted in スナップ, 季節 by obara on the 3月 31st, 2008

雨に朽ちる花。

雨の中、ふと足下を見ると、白い椿の花が”がく”からまるごと落ちていた。地面にたたきつけられてもなお、うえの方を見上げるその様は儚い。部分的に朽ちてきている部分もあるけど、それすら、流れていく時間のなかの、完成された一瞬の一部であるようだ。

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桜、冷たい夜。

Posted in スナップ, , 季節 by obara on the 3月 30th, 2008

通勤路の桜。

毎日通る通勤路に小学校の裏庭があって、そこの桜が満開。あれ、いつも桜ってこんなに早く咲くんだっけ、と少々の違和感を感じながら歩いている。たしか、実家のほうでは花見を毎年ゴールデンウィークくらいにやっていたことを思い出す。桜に代わり、家の前の梅の木は、役目を終えたように花びらが朽ち果て、それが何の木なのか初めて見たものにはわからないだろう。そのくらい数日前の満開だった頃の面影をこれっぽっちも残していない。

今日は2ヶ月ぶりに髪を切った。友人の友人である担当の美容師さんは2ヶ月前より確実に手際が良くなっており、私達は世間話をしながら目の前の鏡に映る見慣れた青年の髪が切られていく様を見つづけた。時々彼女の先輩と思われる女性からアドバイスを受けながら。美容院を出ると銀座の街の多くの店でショーウィンドウのマネキンだけがスポットライトを浴び、肝心の店内は明かりが消えていた。昼間の陽気は嘘だったかのように、冷蔵庫の隙間から流れ出る温度と同じくらいの冷やされた空気が入り組んだ通りに入り込んできていた。

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雲と、あれ。

Posted in スナップ by obara on the 3月 28th, 2008

雲と飛行機。

空気が澄んでいて、太平洋の方へ向かう飛行機が見えた。等速でゆっくりと横切っていくのが人口物を感じさせる。雲の模様が小学校の頃顕微鏡で見たようなきがする何かに似ていた。何かは忘れた。

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私と、キャベツ。

Posted in たべもの, スナップ by obara on the 3月 27th, 2008

タクシーから見たキャベツ畑。
家に帰ってから、キャベツを炒めて食べた。ビールと一緒に食べた。キャベツには実家から送られてきた地元でしか売っていない焼き肉のたれを絡めて食べた。

先日キャベツ畑をタクシーから眺めた。そこには私に食べられる予定のキャベツたちがいた。そのキャベツと今日私の地元の焼き肉のたれが出会った。美味しかった。たぶんこんなことキャベツには予想できなかっただろう。私にも予想できなかった。でもそれは現実に起こった。つまり、結果として美味しかった。

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熟れきった、花。

Posted in ひとり言系, スナップ by obara on the 3月 26th, 2008

牡丹?

久々に潮騒を読んだ。つばめグリルで夕食のミックスフライを食べながら。基本的に文庫本は1回しか読んでない。この潮騒は会社の人に貸していて、昨日返して頂いたままバックに入れていたもの。読み返してみると、この季節の空気感と調和した、爽やかで、晴れてて、たまに雨が降ったりして、けどすこしひんやりしていて世界観を思い出した。私はもちろん初江萌えで、特に行商のじいさんのやってくるまでの海女の情景描写はその克明さに読みながら赤面するくらい好きだけど、新治の母親がとても美しく感じる。本人は多分そうは思っていないのだけど、端から見ていると、そのもちまえの明るさがなぜかセンチメンタルな感情を呼び起こし、まるで熟れきった花を見ているようで。やっぱ男ってのは根本的に生来のマザコンであるとの認識を再確認した。

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三秒間、二人は見つめ合う。

Posted in スナップ by obara on the 3月 25th, 2008

見つめ合う二人。

浜辺で二人は見つめ合う。次の瞬間、二人はつむじ風のようにじゃれ合い、互いに追いかけ合い去っていった。犬が人のことをどのように認識しているかは、これまでの経験からだいたいわかるが、犬が犬をどのように認識しているかということは、少なくとも私にはわからない。二人が見つめ合った時間はつばぜり合いのように均衡した緊張感の中、約三秒間。その三秒の間に二人は何を思ったのか。

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列車に乗って、時間に乗って。

Posted in ひとり言系, スナップ by obara on the 3月 23rd, 2008

駅のベンチ。

列車がトンネルに入ると、窓に見慣れた男の顔が出現する。車内の蛍光灯がつける陰影のせいか、それはやけに痩けて見えた。そして約2分後に光によってかき消されると、そんな男の顔などどうでもよくなり、私は遠くを見た後、手元の文庫本に目を落とした。

列車に乗っていると否応無く時間を意識することになる。単に時刻表の上を進むというだけではなく、時間そのものに乗っているような気分になる。私は感じうる時間軸上のなかで、始発駅を出て、地下から地上に上がり、何回かトンネルに入り、窓に映る自分を見つめ、何回か光にかき消されてそれまでの闇を忘れ、何駅かの主要な駅を通り、終点に降りる。用意された座席に座っているだけでそこまで行くことができる。焦って急いでいても、ゆっくり風景を楽しんでいても、誰にでも平等であることがわかる。

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筋肉痛、鍋炊き男子。

Posted in ひとり言系, 暮らし by obara on the 3月 21st, 2008

晴れた日の家の前の梅。

宅急便のチャイムの音で目覚めると、案の定、老人のように腰を手で押さえながら玄関へ向かう。たまらないので荷物を受け取った後にまたベッドへ引き返す。臀部から腰にかけて、剣山をあてがわれているかのようにピリピリ痛む。一挙一動に「あぁっ」とか「うぅっ」とか、ため息にも似た唸りが自然に発声される。こんなにもあからさまな筋肉痛になったのは久しぶりだ。そして外が雨なのに気づく。明日は晴れて家の前の梅を見たい。

先日仕事で主婦3人と同室する機会があった。料理の話になった。私は家で麻婆豆腐を所謂「素」を使わないでつくりますよ、なんて話題づくりのために言った。彼女たちは甜麺醤という単語に悦び、会話はなんとか盛り上がりを見せていた。そして話題は御飯をどうしているか、つまり、米をどのように炊いているかということに及ぶ。私は普通に電気炊飯釜で炊いていると言った。そしたら彼女たちは「土鍋」、「ルクルーゼ 」と私を見下すように答えた。そして土鍋やほうろう鍋で米を炊くことの素晴らしさについて力説した。「米が勃つのよ」「10分火にかけるだけでイイのよ、あとはムラすの」その話は「鍋でごはん炊いてる男子って萌えるわね」というところまで飛躍していった。自称年上殺しとして、自炊男子として、これはほってはおけない。私は今月の給料で「ルクルーゼ 」を購入することを決意した。

そして今日、渋谷ロフトで現物を確かめてきた。美しく塗装されたその鍋の魅力を再度確認した。来月から私は鍋炊き男子になる。

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フット・サル。

Posted in スナップ, 心のとも, 暮らし by obara on the 3月 20th, 2008

兎とフットボール。

約9年ぶりくらいに体育館でフットサルという名のスポーツに励んだ。まず、最初の20分で酸欠のため頭痛に悩まされた。そしてスライディングして右臀部を体育館の床に打ち付けた。そのあと疲労でお股が緩くなっているところに運悪く至近距離からボールが命中。久々に声にならない声を張り上げその場にくの字になって倒れ込む。ここまではかなり最悪だった。高校の体育の時間は得点王になった時もあったのに(たしか、記憶の中では・・・)、我ながら何たる無様な有様であろう。9年という時間は、こんなにも私の足を、肺を、心臓を蝕んでいたのか。しかしそのあと、峠を越したのか酸欠状態にもなんとか順応し、私の中でなにかが目覚めたのか、他が疲弊したのか、5アシスト。チームの勝利に貢献することができた。久々に流した滝のような汗、家でビールを空けそれを補充。肉体的な疲労は精神的な疲労のラインを占領して、逆に幾分か和らげてくれる効果があるようだ。しかし、最初のスライディングで軽く負傷した右臀部はどうやら青タンになったようだ。風呂椅子に座ると鈍い痛みを感じる。でもそう、懲りずにまた行こう。

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思うから、ある。

Posted in ひとり言系, by obara on the 3月 19th, 2008

光ってるの。

コギト・エルゴ・スム(cogito ergo sum)という言葉を高校の倫理の時間に、教科書から発見した。今から400年ほどまえの近代哲学の父といわれるルネ・デカルトの言葉。日本語だと「我思う、ゆえに我あり」。「私がすべての事物を疑っているとき、私はなにものかでなければならない。だからわたしは存在するんだよ。」っていう、今になって思うとなんだか禅問答のような、合わせ鏡を見ているかのような意味。茫漠とした自己の内世界を望遠鏡で覗き込んでいるかのように気が遠くなったりする。しかし、これはいろいろな事象に応用できる、と最近ふと思った。例えば、「仕事を仕事と思うから、それは仕事なんだ」(仕事は物理用語ではなく会社での業務という意味)とか。仕事と一口にいっても、消防士は火を消してるだけ、農家は野菜つくって売って、経理の人は簿記とかして、社長の人は経営とか。具体的な作業だけ考えるとそれは単純な動作と思考のあつまりであり、仕事という言葉はとても曖昧なものではないか。でも確かに仕事と名のつくものは存在しているわけで、それは私たちが仕事と呼ばれる一連の事象を仕事だと思ってるだけで、それが遊びであるととらえると、「仕事と呼ばれることを金が貰えるけどちょっと責任おわなければならない遊びととらえると、それはそういう遊びである」みたいなことが成り立ったりしたりしなかったり。ようは存在の捉え方だったりするってこと。

ちなみにホイジンガって歴史家は「人は遊ぶ存在である」と定義してたりする。それはどんな人の活動にもルールとゲーム性があるかららしい。たしかにゲームを逆に考えると、とある職業のデフォルメだったりすることが多い。

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